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夫婦ごっこ

夫婦ごっこ

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 放課後に親父から電話がかかってきて、馴染みの料亭に行くように言われた時から、嫌な予感はしていた。
 今、俺の前にはこれでもかとばかりに眉間にしわを寄せた少女が正座している。
その隣には親父と同じくらいの年らしき中年の男が座っていて、少女は一度だけ俺が部屋に入った時に恨めしげな視線をそいつへと送っていたが、相手の方はまったく動じた様子を見せなかった。
 俺の方はと言えば、珍しく制服のシャツのボタンを上まで閉めて、卓を挟んだ少女たちの向かいに座らされていた。

 セーラー服姿の少女は、膝に乗せた拳ばかりを凝視している。
 瞳は大きく、伏せた睫毛は長い。
 俺の学校の女たちはいつも完璧に化粧を施し、長く伸ばした髪を巻いてブランド物の香水のにおいをあたりにふりまいているが、彼女には化粧気一つない。いや、俺には分からないだけで、化粧しているのかもしれないが(唇はほのかに赤く、肌はさらりとしていたし)。そのせいで、彼女は今年18になる俺より年下にも年上にも見える。

「渋沢素子(しぶさわ もとこ)さんだ」
 親父が俺をせっつくように言った。
「ほら、何をぼけっとしてる。お前も挨拶せんか」
 いきなりこんな所に呼びつけられてそんなに気が回るかよ、と思ったが、さすがに人様の前だと思い、自重した。『いい加減で世話を焼かせる次男坊』の俺でもそれくらいはわきまえている。

「小笠原政継(おがさわら まさつぐ)です。どうも始めまして」

 小笠原家は戦前から続く商家のひとつだ。今でも老舗のデパートを経営している。何でも親父の代になってからは、買収を繰り返したおかげでずいぶんと大きくなったという話だが、俺には関係ない。
とはいえ、俺が大して頭もよくないのに、俗に言う『いいとこの坊ちゃん』ばかりの私立の進学校にいるのはそのおかげだ。俺のようないい加減なボンボンがあそこには、それこそ山のように居る。

「素子さんはずいぶんと優秀な学生さんでな」
   そこで親父は街中にある進学校の名前を挙げた。
 同じ進学校とはいえ、ほとんどエスカレーター式に付属大に入るか、コネとカネの力で名門私大に押し込んでもらう俺たちの学校とは違い、彼女が通っているという学校は文武両道を掲げて毎年国立大学への数字もきちんと出しているれっきとした進学校だ。
 そういえばあそこの制服はセーラー服だったっけな、と思い出す。あのへんの学生と俺たちは学校自体がずいぶんと離れているせいで、ほとんど見かけない。
 へえ、そんな「ユーシューなガクセイサン」と俺と一体どういう関係があるっていうんだ。皮肉な気持ちで、片頬を歪める。

「恐縮です」
 硬い声で少女が返した。

「素子さんは、お前と結婚していただく相手だよ」

「……はあ?」

 耳を疑った。
「政継君のお父さんと私は、高校時代からの古い仲でね。昔からそういう話はあったんだ。私はしがない大学教授なんだが、今度研究でドイツへ長期滞在することになってね。以前、その話をしたら、小笠原がちょうどいい機会だというんで、こういった席を設けてくれたんだ」
 少女の隣の中年がそこでようやく口を開いた。親父が後を引き継ぐように続ける。
「素子さんもせっかくあんないい学校に入ったのにわざわざドイツまで行くのもなんだろう。お前もいい加減に馬鹿みたいな女遊びはやめて、素子さんのような素敵な女性に一緒になってもらえ」
「…っな!おい、親父!俺、そんな話一言も聞いてねえぞ!!」
「政継。みっともないとこをお見せするんじゃない。……すみませんね、素子さん」
「……いえ」

 謀られた。
 いつかはこんな話も出るだろうと思っていたが、まさかこんなに早いとは思わなかった。
 そう言えば、兄貴の政彦も今の奥さんと見合い結婚だったが、大方この親父にはめられたのに違いない。
『渋沢の娘さんなら頭もいいに決まっている』
『いくら誉めたってなんにもでないぞ』
 と話に花を咲かせる親父たちとは対照的に、俺と少女――渋沢素子は黙り込んだまま、その日はお開きとなった。


 * * *


 家に帰って早々、親父は険しい顔で言い放った。
「言っとくが、お前の反論は受け付けんぞ。お前の捕まえてくる相手がどんなものかはもう嫌というぐらい分かってる」
 俺はその言葉にぐっと唸る。確かに今まで家に連れてきたのは、小笠原の家か俺の見た目くらいにしか興味のない女ばかりだった。
 それは俺なりに高校時代だけのお遊びのつもりだったからだし、そんな連中と将来結婚する気など毛頭ない。
 しかし、だからと言って、まだ高校生のうちからろくに知りもしない相手と結婚する気になるはずがない。

「やりかたが汚いんだよ。あんな騙すみたいに。だいたい、あんな初めて会ったような奴とすぐ暮らせるかよ」

 親父とあの渋沢とかいう中年は酔狂なことに、渋沢素子と俺を、小笠原本邸の離れに二人で住まわせると言っていた。なんでも俺が18になると同時に届を出して、書類の上でも実生活の上でも、夫婦とさせようとしているらしい。

「素子さんなら間違いない。おふくろも認めていることだ。お前が今住んでるマンションは解約したぞ。荷物も運んであるからこれからは家から学校に通え。キクさんが離れの用意をしてくれてる」

 ネクタイを緩め、親父はもう終わりだ。というように書斎の襖(ふすま)を閉めた。
親父の言う『おふくろ』とはその言葉の通り、俺の祖母のことである。親父が後を継いだ後も、この小笠原の家の実権を握っているのは、祖母である『お祖母様』だった。和服姿で背筋をぴんと伸ばし、白髪を乱れなく撫でつけている祖母は、小さい頃からいつまでたっても苦手だ。


「……やってられるかよ…」


 俺は閉め出された書斎の襖に向かって、ぶつける先を失ってしまった言葉を、途方に暮れたようにつぶやいた。