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夫婦ごっこ

夫婦ごっこ

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 次の日の夕方も、俺は彼女――渋沢素子と顔を突き合わせて、これ以上ないくらい不機嫌な顔で日本茶を飲んでいた。


* * *


 あれから親父の言うとおり俺が家から離れた高校へ通うために借りていたマンションは解約されることになり、荷物は全て離れに運び込まれていた。
彼女の方はと言えば、この結婚に関して何を言うでもなく、ただひたすら頑なな顔でキクさんの指示に従って、ボストンバッグを部屋に運んでいた。

 キクさんというのは、小笠原の家に俺が小さい時から通っている家政婦さんの菊代さんのことで、俺たち家族はみんな「キクさん、キクさん」と呼んで世話になっている。
 この家には家事や雑事などを主にやってくれる家政婦が何人かいるのだが、その中でもキクさんは一番の古株だった。
 なんでも、親父がガキのころからうちにいると聞いている。

「政継さん、今晩はこちらで静代さんも一緒に夕食を召し上がるそうですよ」
「……どうせ、俺にくぎを刺しに来るんだろう、分かってるよ。勝手にはできないって、要はそう言うことだろ」
「政継さん…。素子さんも何か必要なものがありましたら、なんでもキクに言って下さいね。すぐにご用意いたしますから」
「…いえ。菊代さんには色々とよくして頂きました。ありがとうございます」
 にこりともせずに渋沢素子はそう返した。普段からというより、顔が強張っているために表情が無くなっているような様子だった。
 キクさんが軽く一礼してから去って行った。廊下を足音が遠ざかる。

「おい」
 はっと彼女が顔を上げた。俺たちは座卓を挟んで向かい合うように座っていた。この奥にはずいぶんと広さのある座敷があるが、そこに新品の白い布団が2組並べてあるのを俺は知っていた。さっきキクさんが敷いていったのだ。お疲れになったのなら、ご飯の前に一眠りされますか、とか言って。
 なんだかその並んだ布団の間にほとんど隙間がないのが生々しくて、俺はすぐに障子を閉めたのだが。

「あんた、一体どういうつもり?うちの家にいきなり転がり込んできて。親父の後でも狙ってるなら、残念だけど俺じゃ意味ないよ。俺は次男だし、親父の後を継ぐつもりはないし」
「…はい?」
 出された日本茶をぐいっ、とあおり、乱暴に椀を卓上に置いた。
「それとも何?うちんちの金にでもふらついた?」
 意志の強そうな彼女の整った眉が跳ね上がる。俺はそれに気づかないふりをして続けた。いくら親父の古い仲の男の娘だとはいえ、俺にとっては相変わらず彼女は得体のしれない女のままだし、無性に気分が悪かったせいもある。
「まあ、親父やばあさんが決めたことならもう決まったも同然だから俺にはどうしようもないけどな。あんたが何か企めるほどこの家の奴らは甘くないぜ」

 ばしゃ…っ!と何かが俺に突然降りかかって、その直後に熱さが襲ってきた。
 向かいに座る彼女が、空の椀を持っているのを見て初めて、茶をかけられたのだと認識した。そう分かった途端、ガソリンを舐めるような勢いで怒りの火が回った。

「てめっ…」
「馬鹿じゃないの。商家の次男坊だか何だか知らないけど、あんたが金持ちなわけじゃないでしょう。親の金のことでいちいち偉そうにほざくのはやめて。みっともない。」

 今までの無表情が嘘だったかのように、彼女は怒りを露わにして語気荒く言い放った。俺の怒りなど蹴散らすぐらいの勢いで。

「こう言ってしまうと身も蓋もないけど、小笠原さんには昔から世話になっているからこの縁談を受けただけで、この家にもあなた自身にも何の興味はありません。私は金しか力のないような人種は嫌いだし、だからあなたも嫌いですが、あなたのお父さんはいい人だったし、私たち家族はずいぶんとお世話になりました。それだけです」

 俺は頭から日本茶をぽたぽたと滴らせながら、阿呆のように口を開けていた。
 頭に来るやつだが、言っていることはきっと正論に違いなくて、なんだか俺はどうしようもなく情けなくなる。だからといって、どうすることもできなくて、俺は無言でその場を去ろうと腰を上げた。

「分かったでしょう。政継」

 慌てて開け放したままにしていた障子の向こうに目をやった。
「お祖母…様」
「素子さんの仰る通りです。うちの馬鹿孫が本当に失礼なことを言いました。素子さんはこちらが頼んでお嫁に来ていただいた方なのに。
 初めまして。素子さん。ご挨拶が遅くなって申し訳ありませんね。本当なら、ゆっくりご飯でも食べながら、と思っていましたが……折角ですし、気分を変えて今日は外に食べに行きましょうか。キクさんにも夕飯の用意は要らないと言っておきます」

 ぴしりと和服を着こなした祖母は、渋沢素子に向かってにっこりと笑った。
 俺は祖母のその顔を見て驚く。祖母はどちらかと言えば気難し屋なたちだと思っていたし、初対面の人間にこんな風にはっきりと笑って見せることなどほとんどないのだ。
「あ、おばあさん…」
 渋沢素子は、はっと何かに気づいたように口元に手を当てた。祖母は悪戯っぽく笑って、
「その話はまた今度にしましょう。政継、着替えてきなさい」
 それだけ言うと、祖母は踵を返した。


* * *


 街のはずれ、人の気配のほとんどない山のふもとの「柳亭」に俺たちは居た。敢えて一日に数組しか予約を取らず、それでも予約は1年先まで埋まっているというこの知る人ぞ知る名店「柳亭」の店主と祖母はずいぶんと古くからの昔馴染みらしく、本来なら1年待たなければならないところを、電話一本で座敷に通された。
「きれいな器…」
 俺の横に座っていた渋沢素子が、思わずと言った様子で小さな声を上げた。
「この店の主人お手製の器なんですよ。それを聞いたらきっと喜びます」
「そうですか」
 そう言ってほほ笑む様子は、先程まで怒りに頬を染めて茶をかけてきたような奴と同一人物だとは思えない。だとしたら、今まで俺といた間の無表情が彼女からしたら不自然な表情だったのかもしれない。
「まずはいただきましょう」
 そう言って祖母は暖かな素麺を口に運んだ。
 祖母が使う店にしては、格式ばってなくていい店だと思った。きっと、渋沢素子に気を使ってこの店を選んだのだろう。
「政継、……素子さんに言うことがあるでしょう」
「悪かった。…いきなりで混乱してたんだ」
 最後の一言は明らかに嘘だったが、渋沢素子がそれに気を悪くした様子はなかった。
「いえ、私も失礼なことを言いました。…熱かったですよね」
「そりゃ熱いに決まってんだろ、馬鹿かあんた」
「……」

 はあ、と祖母がため息をつく。
「素子さん、気にしないでください。政継はこう、昔からなんというか…」
「粗暴」
「ええ。その通りです。さすが素子さん、きちんと勉強されていますね。政継はこう粗暴で聞くに堪えないことばかり言いますが…」
「お祖母様…」
 思わず俺は口をはさんだ。
「根は悪い子じゃないんですよ。…素子さんもじきに分かってくれると思いますが」
「…そう、でしょうか」
「ええ」
 俺はもうなにも言えなくなって、ひたすら箸を動かした。次々と料理が運び込まれ、そのたびに細々と、祖母や渋沢素子が話すのを聞いていた。
 最後に果物が運ばれてきたところで、不意に渋沢素子が僕に向かって口を開いた。

「私は、なんと呼べばいいですか」
「…は?」
「名前です。小笠原さん、と呼ぼうにもあの家の人はみんなそうだし」
「何言ってんだ、あんた。馬鹿だな。普通に名前で呼べばいいだろ。俺の名前くらいもう覚えてるだろ?『政継』でいい」
「…じゃあ、私のことは『もと』でいいです。学校の友達も、みんなそう呼ぶから」
 小さな声で喋りあう俺たちを、そっと笑いながら祖母が見ている気配がして、俺はなんだかいたたまれなかった。

 渋沢素子――『もと』との波乱続きの結婚生活初日はこうして終わろうとしていた。