頬を上気させたまま障子を開けた もと は、その瞬間面白いぐらいに表情を固まらせた。
薄暗がりの中に並べて調えられた寝具、次いで小さな灯りをつけて横になったまま本を読む俺にさっと目線を走らす。
その様子があまりにも予想通りで、思わず苦笑を漏らすほどだった。
祖母との夕飯を終えた俺は、「こちらでゆっくりして行きなさい」という祖母の言葉を断れずに困ったような顔をしていたもとを置いて、早々と風呂に入り、キクさんが敷いてくれた布団に横になっていた。
さすがにまだ早い時間だけあって眠ることはできなかったが、どうにも身の置きようがない座敷で(もと が俺にぶちまけた茶はきれいに片づけられた後だったが)戻ってくる彼女を出迎える気にはなれなかったのだ。
小笠原の家の者が用意しておいたらしい浴衣を着た彼女が、無言で腰を下ろし、手前に敷かれた布団の端を引っ張った。俺の布団から離れるように。
俺を警戒したまま、布団にもぐりこむ。
「心配しなくてもあんたみたいなちんくしゃに食指は動かん」
「…そうですか。それは安心しました」
枕元のライトしかない状況で、彼女の表情をはっきりと確かめることはできなかったが、その時、彼女は確かに笑っていた。
彼女がちんくしゃだというのは明らかに俺の強がりだったが、それに関して触れられることはなかった。
「政継…は、お義父さんとは仲がよくないんですか」
「……何なんだ、いきなり。大体、この年にもなって親父と仲良しな男なんかいるかよ」
読んでいた本を閉じて、仰向けになっていた体をごろりと横に向けた。右肘をついて頭を起こす。いくら布団を離したとは言っても、その距離はやはりほとんどお互いを知らない男女の間では、近すぎるもので、彼女はあからさまにたじろいだ。
「……そうですか」
「それよりも、あんた、その人を馬鹿にしたような言葉づかいはやめろよ。いらいらする」
「え?」
毒気の抜かれたような顔で、ぱちぱちと瞬きされた。怪訝な顔で彼女がむくりと起き上がる。
「なんのことですか」
「だから、それだよ。それ」
その慇懃無礼な物言い。
どうせ、内心では俺のことを馬鹿にしているんだろう。
そう思っていたが、どうやらもとの様子がおかしい。
「……?」
数日前とはまた違った表情で、彼女は眉間に皺を寄せて何事かを考え込んでいる。
「もと?」
その様子に思わず声をかけると、ぴくりと彼女の肩が跳ねた。
「……なんだよ、それは」
「いや……政継がいきなり名前で呼ぶから驚きました」
「あんたが自分でそう呼べって言ったんだろうが…」
「そうですけど……いや、すみません」
そこで、わずかに彼女が身を乗り出した。
「あの、さっきのはどういうことですか?考えてみましたけど、別に言葉づかいに問題はないと思いますが」
彼女のこの態度から見るに、どうも完全に俺の自意識過剰だったようだ。それをわざわざ相手に告げるのも憚られて、開こうとした口を噤む。
「政継?」
「……あんたのその馬鹿丁寧な物言いは俺のことを見下してるのかと思っただけだ」
「え」
「もう別にいい。なんかあんたの態度見てたら俺が勝手に勘違いしてるだけだったみたいだし」
いたたまれなくなって会話をたたもうと、無意識に早口で言葉を吐きだした。
まさしく、きょとん、と言った様子で俺の顔を凝視していたが、やがて、
「政継は高校3年生でしょう」
「…そうだけど」
「だからです。政継は私より年上だし」
「……それだけかよ?っていうか、あんたいったいいくつなんだ。結婚って言うぐらいだから一応16はこしてるんだろうな?」
「17です、高2」
「なんだそれ。じゃあ今、俺と同い年じゃん」
「……まあ、そうですけど。私は4月生まれですから」
高3でも、まだ誕生日を迎えていない俺は17だ。俺の誕生日は今月、5月の末日だから、彼女と同い年でいるのはほんの1カ月か2か月ほどの間だが。
「ていうか、年上だろうが年下だろうが、んな敬語必要ねーだろ。どうせ嫌でも一緒にいなきゃならないんだ」
「……政継は、私が政継を見下していると思ってたんですか」
「だから、俺の勘違いだったんだろ。なら、いい」
「…そうですか。すみませんでした」
「……なんだよ。別にあんたが謝ることじゃないだろ」
「……」
そこでふっ、と、もとが押し黙った。
掛け布団からゆっくりと出て、敷布団の上で正座をし、俺の方へまっすぐ向き合った。その改まった様子に、少なからず俺は動揺した。
「今日、『親が金持ちだからといって何が偉い』と、私は政継に言いました。別に私は食うに困るほどの貧乏はしたことないですけど、でもまったく何も考えずにお金が使えるほど金持ちかと言われればもちろん違います。
だから、政継が…その…親の名前をいいことに勝手にやってるのが腹立たしくて、それに私が大学教授の娘で、政継の周りにいるような裕福な家の人間じゃないから侮辱されているのだと頭に血がのぼって、それで思わず言ったんです。
正直、縁談を受けた時も『どうせそういう奴』なんだろうって半分諦めていました。」
耳に痛い言葉だった。今の俺を見たら、実際そうとしか言えない。ボンボン学校に入れてもらい、女に声をかけられれば節操なしに相手をしてきた。
それこそ親父を困らせたことはいくらでもあったが、親父に認めてもらえるようなことを何かしたかと言われれば、そんなのまったくない。今回、親父にしては珍しく強引に事を進めたのは、そんな俺をみかねたからだろう。それくらいは容易に想像がつく。あれで親父は意外と、昔から心配性なのだ。
「たぶん、政継が不快に思ったのも、私が思ったことを無意識に感じ取ったからだと思います。だから、それは私のせいです。すみませんでした」
そう言って、彼女はそっと頭を下げた。
「……別に俺はあんたのことを見下してるわけじゃない。ただ、何か狙いがあって俺に近づいてくる連中が、今まで少なからずいた。そのうえ、俺はあんたのことをほとんど知らないからいくら親父からあった話だとはいえ、警戒してた。それになにより、食事の時も言ったが、苛立ってた。……悪かった」
俺の言葉に、彼女は静かに返す。
「分かっています。…いえ、少し考えれば私にもそれぐらい分かりそうなものでした、すみません」
賢そうな彼女のことだ。彼女がそう言うのだから、その通りなのだろう。
詰めていた息を、そっと吐いた。
「それで?」
「は?」
「俺への言葉使いはそのままか」
「……政継が改めた方がいいと言うならそうします」
「なら、改めろ」
「……」
呆れたような顔をした彼女はそのまま無言で俺に背を向けて、再びもそもそと掛け布団をかけると、横になる。
「おい」
家から持ってきたらしい、ずいぶんとうるさい電子音で朝を告げる忌々しい目覚まし時計(そんな無粋なもの断じて我が家のものではない)をセットすると、そのまま掛け布団の中に潜り込んでしまった。
「…おい」
「……」
どうやら答える気がないらしい。
ため息が出そうになるのを押し殺して、自分も彼女に背を向けて横になり、枕もとの照明を消した。
もう言葉遣いのことは忘れよう、とそう思って俺が目を閉じたとき、
「おやすみ、政継」
俺の背中の向こうから声がした。慌てて起き上がったが、もちろん俺に背を向けている彼女の顔がうかがえるはずもない。しばらくすると、闇の中、小さな寝息が聞こえてきて、女と一緒に寝て何もなかったのは久しぶりのことだと、ふと思った。
それから、俺がずぶずぶと眠りに引き込まれていくのに、そう時間はかからなかった。
俺の誕生日まで、もう、あと1週間だった。