HOME >>

夫婦ごっこ

夫婦ごっこ

4





 ぐったりとした顔で障子を開けた私を、彼はにやにやと下品な笑みを浮かべて出迎えた。

「…ただいま帰りました」
「どーも。お疲れさん」

 その軽薄で上っ面だけの笑みを取り去れば、その下には彼の父親とよく似た鋭い眼差しがあるのを、私は既に知っていた。顔立ちだけ見れば、この親子はえらく似ているのだ。
 他者に与える印象が違うのは、この男の薄っぺらでバカっぽい態度のせいに過ぎない。

「他人事だと思って…」
「そりゃあ男がめかしこんでもしょうがないからな。まあ、それも明日までだと思って頑張れよ」

 セリフの割に投げやりな口調で言われる。なんというか、人の気を悪くするのがずいぶんうまい男だと思う。自分の夫になる人間をこんなふうに言うのもあれだけど。

「……。この家に来てから思ってたけど、いつも政継はこんなに早いの」
 以前、その慇懃無礼な物言いをやめろと苦虫をかみつぶしたような顔で政継に言われてからというもの、政継に対する私の言葉づかいは完全に同級生に対するそれと同じく普段通りのものになった。
最初は多少まごついたが、慣れてしまえば気にならない。本音を言えば、この男に敬語を使うのも気にくわなかったので、むしろちょうどいいくらいだ。

「あ?」
「まだ8時前だけど」
「なら、別に早くもねえだろ」
「政継の高校遠いし、ちゃんと遊びにとか行けてるのかと思って」
「……」
 持っていた通学用のカバンを隣室に置く。座敷と座敷の間の襖は開け放っているが、返事が返ってこないので、思わず顔をのぞかせた。
「政継?」
「……お前、そんなこと気にしてたのか」
「?」
 意味が分からない。
 しばらくモダンアートを観た大工の棟梁のような顔をしていた政継だったが、やがてその顔に例の軽薄な笑みを取り戻すと、
「式を控えてるってのに、ダンナが遊び歩いてたら話にならねえだろ」
 これには私の方が閉口した。
 彼に私と結婚したという自覚があるとは思えない。おそらく小笠原のおじさん(政継の父親だ)とお祖母さんに逆らえないから、結婚することにしたにすぎないのだろう。
「で。今日はなんだったんだ」
「江梨子さんと一緒にエステに行って、そのあと美容院で髪とツメ」

 江梨子さんというのは、政継の兄・政彦さんの奥さんで、私からすると義理の姉ということになる。いかにも良家の子女です。と言った感じで、エビちゃんも真っ青な完璧かつ上品な巻き髪を揺らして、放課後になると学校の前に立っていた。 ここ数日というもの私は毎日どこかへ連れまわされている。
 江梨子さんが私に色々としてくれるのは、何でもあのお祖母さんが「年が近い方が何かといいでしょうから」と気を回してくれたおかげらしい。こういう気配りの仕方が本当にあのお祖母さんらしいと思う。
 最初、小笠原家に嫁ぐと決めたときには、「なんて恐ろしいとこに放り込むのだこのバカ親父」などと内心、おののいたりしたものだが、実際はお祖母さんと言い、キクさんと言い、江梨子さんと言い、良い人たちばかりだ。今のところ、小笠原家来て会った人たちの中で印象が悪いのは、政継くらいなものである。


 その政継はと言えば、私の言葉に頷いたものの、
「ふう…ん。でもさ、昨日も思ったけど、別に大して変わってねえよ」
 と、身も蓋もないことを言い放った。
「大して変わってないも何も、政継は変化が分かるほど私のことを見てないんだから当たり前でしょう。整形じゃあるまいし、そんな劇的に変わるわけない」
 ぴしゃりとそう言いやると、制服から着替えるために襖を閉めた。
 私がこの家に持ち込んだ荷物はそう多くない。必要最低限の衣類や小物と、勉強道具一式だけだ。手早く制服から着替えて、居間のように使っている座敷へと戻る。
「なるほど」
「…何」
「確かにもとの言う通りだ。よく見りゃ変わってる」
「どこが」
「肌質」
「肌質ぅ?」
「元々悪いわけじゃなかったけど、今日は特によさそうだな」
「…そりゃあ、どうも。ところで、女の人って大抵褒めることがないような人は、髪質と肌質を褒められるもんなんですけど。知ってた?」
「当たり前だろ」
「……あー…、そう」
 
 ちょうどここでキクさんが廊下から声をかけてきた。
「お夕飯お持ちしました。よろしいですか?」
「あ、キクさん、お疲れ様です。どうぞ」
 廊下に面した障子を開け、お盆を持ったキクさんに軽く頭を下げる。キクさんの後ろにはもう1人エプロンをかけた中年の女性がいて、キクさんの持ったものと同じお盆を持っている。女性は私に、キクさんは政継の横へ向かい、一つずつ料理を卓上に並べていく。
 作業がすべて終わって、キクさんが下がろうとするとき、
「いよいよお式は明日ですね。おめでとうございます」
 そう言って笑った。私は思わずそれに困ったような笑みを返してしまって、向かいにいる政継があからさまに笑いをこらえているのが、また腹立たしかった。


* * *


 顔合わせの翌日にこの家にやって来た時、政継はえらく気が立っていた。
 彼は私に「親父の跡継ぎだから俺を狙ってるんだったら無駄だ」だの「それとも金にふらついたか?」だのと暴言を吐いたが、きっとあれが彼の本心だったに違いない。
 苛立たしいことだが、彼にしてみれば私はいきなり自分の家に入り込んだよそ者の女に過ぎないわけで、だとしたら警戒するのも当たり前だった。
 だからそれに激昂して、政継にお茶をぶちまけたりしたのは完全に私に非があると思っている。
 政継はずいぶんと自分に近寄る人間に警戒しているように見える。小笠原のおじさんが私なんかに政継との結婚を頼みに来たのは、そういった辺りをなんとかしたいと思ったからなのかもしれない。
 小笠原のおじさんのことをふっと思い出して、思考が沈むのを自覚する。本当なら絶対受けないようなこんな縁談を受けたのは、小笠原のおじさんからある事実を告げられたからだ。同情したのかどうかは分からない。
ただ、「無理です」と返事をするのはあんまりだと思って、気がついたら小笠原の家に行くことを了承していた。

『悪いが、このことは政継には伏せておいてくれないか』
『……息子さんに言わないつもりなんですか?』
『……もし言うとしても、政継には私の口から直接伝えたいんだ』
『そうですか……分かりました』


 だから私は黙っている。
 怒りに我を忘れても、このことだけはぎりぎり言わなかった。
 もしかしたら、政継がこのことを知ったら、私がずっと黙っていたことを知ったら、『欲に目がくらんで嫁いできた女』よりも恨まれるかもしれない。
 これから先、政継とどうなるのか、どうしていくつもりなのか、私にはまったく分からなかった。



 暗闇の中、そっと隣の布団に眠る政継を横目でうかがった。
 規則的な寝息が聞こえる。
 最初の日に敷布団を自分の側に引いて政継の布団と距離を開けて以来、その距離はそのままだ。
「ん……」
 小さく声を漏らして、政継がごろりと私の方に向かって寝返りをうった。やや眉根を寄せた端正な顔立ちは目をつむっていると余計に小笠原のおじさんに似ていた。軟派そのものの彼らしい茶髪も、式があるということで今は黒に染め直しており、こうして眠っているとむしろストイックな雰囲気さえ漂っていた。

 私は彼に背を向けるように、体を動かした。
 明日の式に緊張しているわけでもないのに、なんだかその夜はなかなか眠れなかった。
 

 夢は見なかった。