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夫婦ごっこ

夫婦ごっこ

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 おじさんが入院してから数週間。
 政継の兄、政彦さんの周囲はにわかに忙しくなったようだ。政継の方はと言えば日に日に苛立ってきているように思う。無理もない。政継にはおじさんがどういう病状なのかも、そしてこれからどうなるのかということも一切知らされてはいない。
 私はと言えば、いよいよ政継に何も伝えずにいた罪悪感で身動きがとれなくなっていた。私と政継の間に重たくどんよりとした空気が流れているのにキクさんはもちろん気づいていたようだけど、毎日病院に通っておじさんの身の回りのことで忙しなく動き回っていたから私たちに構っている暇などないのだろう。
 まさしく、今の私と政継にふさわしい言葉と言えば、蚊帳の外だった。
 悪い知らせはそれからしばらくしてやってきた。



 その時私は学校にいて、だからもちろん政継もそうだった。
  授業と授業の合間の短い休み時間の間に、重々しい表情をした担任から呼び出された。職員室の電話で他の教員がタクシーを呼んでくれていた。バタバタと病院へ向かう。ちょうどその時、政継も同じく到着し、足早に向かってきた。そっと窺った政継の横顔は蒼白で、きっと私と同じ連絡をもらったのだろうに、何を言われたのか分かっていないような顔だった。
 ガタン、と特別室の病室の戸を開けると、白いシーツで覆われたベッドの周りを政彦さんと江梨子さん、そして目を赤く腫らしたキクさんが囲んでいた。
「は……」
 ピクリとも動かないおじさんの姿を目にした政継がベッドの手すりにつかまったまま、くずおれるようにしゃがみこんでしまう。
 険しい顔のまま政継を見やった政彦さんが、江梨子さんの耳元で何かささやいて足早に病室から去って行った。
 こうして表情を失くしているところを見ると、政彦さんと政継が本当によく似ていることに気づく。
「なんで…」
 政継にとっては本当に突然の出来事のはずだ。それ以外の人々にとっては、覚悟をしていた事態であったけど。
「政継」
 どこかへ電話を掛けに行っていたらしい政彦さんがすぐに戻ってきた。
「来い」
 政継は何も知らされず、そしておじさんの最期の時にも間に合わなかった。無言で政彦さんの後を追う政継。この話をおじさんから受けた時は、その時の政継のことなんて何も考えなかった。ただ、とんだ親不孝者の男がいるのだと他人事のように思っていた。
 けれど、政継が泣きも笑いもする血の通った人間だということを知って、さりげない優しさや彼なりの私への気遣いを感じて、きゅう、と急に胸がえぐられるような気持ちになった。
 本当に唐突に。
 ぐっと喉元が熱くなって、でも泣いたらダメだ、と思った。
 だって、私が泣いたら、政継は。
「ふざけんな!!」
 廊下から政継の大声。慌てて飛び出す。
「お前ら皆してぐるになって俺のことバカにしてんのか…」
 ぎりぎりと噛みしめ、吐き出すように言い捨てた政継の言葉に、彼が全てを知ったのだと知る。
「親父からの頼み…?んなもん、親父がどんな状態か分かってたら俺だって……」
「思い上がるな。仮にお前が親父の状況を知ってたとしてもできることなんて知れてる」
 冷たく言い放った政彦さんは今まで見たことがない冷徹さで政継を見下ろしていた。
「これ以上親父をがっかりさせるなよ、政継」
 哀しみと悔しさと憤りの混ざった政継の瞳から、どろりとした感情の渦が透けて見えるようだった。



 病院から家へ向かうタクシーの中は重苦しい沈黙で支配されていた。
 江梨子さんから渡されたタクシー代は手の切れるような新札で、白い封筒に入っていた。江梨子さんの天然なようでいてところどころで発揮されるそつのなさは、まさしく「長男の嫁」という風だった。
 病院で政彦さんとやりあってから、一言も発しなかった政継がようやく口を開いた。私は断頭台の前に立たされた罪人のような気持ちでいる。
 いつ刃が振り下ろされるのか。
 いつその時が来るのか。
「お前、知ってたな。最初から」
「……」
「もと」
「…………」
「親父が倒れた時もお前は分かってたはずだ、もう病院から出れないだろうって」
「……」
「……なんで言わなかった」
 政継の一言一言がそのまま私を切りつける刃物のようだった。
 分かっていた。
 何もかも、こうなることだって分かっていて、引き受けたはずなのに。
「なんで俺に一言も言わなかった!もと!!」
 タクシーの運転手がぎょっとしてルームミラーで私たちの様子を確認してくる。激昂している政継にかわって軽く頭を下げるが、疑り深そうな眼差しは変わらなかった。

 私からの眼差しをはねのけるように背中を丸めて頭を抱えた政継がぽつりと漏らした。

「もう信じられねえよ、お前のことなんか」

 その時、ぽつりと私の頬を熱い水滴が伝ったのを、肌で感じた。
 そして政継の刺々しい拒絶もヒリヒリと。
 もらったばかりの新札がぐしゃりと手の中で音を立てた。



(2013/08/28 改)