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夫婦ごっこ

夫婦ごっこ

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 縁側に座り込み、美しく手入れされた庭をぼんやりと眺める。今にも沈もうとしている太陽が橙色とも薄青色ともつかない色で辺りを染め上げている。その空気のどこかにせわしなさを感じるのはやはり、子供が家路を急ぐ時間だからだろうか。
 ぶらり、ぶらりと赤い鼻緒の下駄を靴下のままつっかけて揺らしてみる。
 今頃、病院で点滴の管に繋がれているだろう小笠原のおじさんのことを思う。
 『働きすぎなんかいつものことだ』と言う政継の言葉に反して、小笠原のおじさんは今も入院している。

 政継はまだ、帰ってこない。



『一年しかないんだ』
 小笠原のおじさんはそう言った。
 インスタントの安っぽいコーヒーだというのに、おじさんはいかにも美味しそうに啜り、ふぅ、と満足げなため息をひとつこぼした。渋沢家の小さな居間で。
『今まで馬鹿みたいに心血を注いできた仕事は長男に任せることにしたし、あいつはちゃんとした嫁さんももらった。もともとあいつはまじめなやつだし。家のことは馴染みの家政婦さんに任せておけば心配はないんだがなあ……』
『……そうなんですか』
 いくら熱心に勉強してきたとはいえ、こんな状況にどう対処するべきかなんて当然のことながら学んでいなかった私は、間の抜けた相槌をうった。

 おじさんの言うことを簡潔にまとめるならば、こうだった。
『自分はどうやらあと一年もしないうちに死ぬらしい。唯一気がかりな次男をしっかりした人に任せてから自分は去っていきたい。どうかその相手に君がなってはもらえないだろうか』
 母を早くに亡くし、父に男手ひとつで育ててもらった私。幼いころは「親戚のおじちゃん」だと思っていたほど、色々とお世話になった小笠原のおじさん。
 そんな彼の正真正銘「最期のお願い」を断るなんてできるはずがない。
 
 それが、政継と会う半年ほど前の話だった。

 初めて政継に会った時は、どうしようもない男だと思った。こんな男を心配して、おじさんが私なんかに頭を下げるなんて、と行き場のない怒りも覚えた。
 半分お遊びのような共同生活の中で、まるで野良犬をおそるおそる馴らすかのように、政継に接してきた。傍若無人で、利己的で、下品などうしようもない男だけれど、でもそれだけじゃない。
 しかし、政継がこのことを知れば、激しく怒るだろう。
 私は彼の父親の病態を知っているのに、敢えて彼に告げなかったのだから。
 彼は血の繋がった息子だが、私は赤の他人だ。そんな私から事実を知らされて政継が何も思わないはずはない。
 
 どうしよう。
 最初から分かりきっていたことなのに、私はあろうことか怖がり始めている。
 いつか政継に全てを知らせたとき、彼の黒々とした瞳が疑いと蔑みの色に塗り込められるのを。
 まるで、私と彼が初めて顔をあわせた日のように。



 突然、くしゃりと髪を撫でまわされて、びくりと肩を揺らした。
「こんなとこで寝たら風邪ひくの分かりきってんだろ。いちいち面倒なことさせんなよな」
 熱い大きな掌に、顔を上げる。
 既に制服から着替えた政継が、あきれ顔で私を見下ろしていた。
 考え事をしているうちに、柱に頭を預けて眠ってしまったらしい。足に引っ掛けていた下駄は下に落ちてしまっている。妙な姿勢で寝たせいで、こころなしか首が痛いような気もする。
 寝起きで頭が働かない。私は昔から低血圧なのだ。
 そのへんはさすがに政継も承知しているらしく、寝ぼけ眼の私を立ち上がらせ、てきぱきと部屋の中へと連れていく。
 腰を取られて、なんだか自分が巨大な操り人形にでもなったみたいな気分だ。
「んん……おかえり、まさつぐ」
「…………はいはい、ただいま」
 渋い顔をした政継が、割と雑な仕草で私を座らせる。
「この様子じゃ晩メシは母屋だな……にしても、お前最近よく寝るな…」
 ため息混じりに呟いた政継に、それはどうもすみませんね、と言ってやったような気がするけど、定かではない。
 そのまま、さきほどの眠気を引きずって瞼が重くなる。ぐらりと傾いだ身体が、大きな掌でがしりと掴まれ、支えられる。
 ずぶずぶと再び意識が沈み込んでいく。誰かに鼻の頭をつままれて、ふが、と間抜けな声が出た。その手のうっとうしさにむずかり、身体を捩ると、低い笑い声がどこか遠くで聞こえたような気がした。



 次に目を覚ました頃、あたりは暗かった。わずかばかり開いた寝室の襖から、橙色の灯りが一筋漏れている。ごそごそと重い身体を起き上がらせる。暗闇に目を凝らす。壁に掛けられた時計は「1」を指していた。深夜だ。
 風呂も入らずにこんな時間まで眠ってしまったことに後悔の念を抱きながら、ずりずりと灯りの方へと向かう。明日の朝シャワーを浴びればいいだろう。
 そっと襖を開けたはずなのに、まだ眠っていなかった政継は頬杖をついて眺めていた本から顔を上げた。
「起きたのか」
「ん……」
「のろのろしてないで、さっさと寝ろよ」
「まだ服着替えてない……」
「そんなもんはいいんだよ、どうでも。おら、早くしろ」
 乱暴に布団の中に押し込まれて、ふかふかした掛け布団を頭まで上げられる。
「お前が慣れないくせになんでも自分でしようとするから……ほんと要領悪ぃな、もとは」
 政継と暮らしていると自然に翻訳機能が身につく。つまるところ、これは政継なりに私のことを心配してくれているのだ。珍しく。
 なんでもないことなのに、胸にきた。
 
 政継が、私のことを心配するようになるなんて。
 笑いたかったが、笑えなかった。

 私はこれを――政継を、まだ失いたくはない。

 布団の上からぽん、と叩かれたような気配がした。ぱちり、と音がして灯りが消える。
 私は布団に額を押し当てて、ぎゅっと強く瞼を閉じた。