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夫婦ごっこ

夫婦ごっこ

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 私が最初に教えてもらったのは、肉じゃがだ。
 定番と言えば定番のメニュー。
 政継の好物の一つが肉じゃがだというのは意外だった。和食はあまり好きじゃないだろうと勝手に思っていたから。

 初めてキクさんの横で作った時からもう何度目かになるそれは、さすがにみられる出来になってきたと思う。
 時折鍋の中を混ぜながら、肉じゃがの残りはコロッケにしてみようと考えていた。

 何かと離れの雑事を片づけてくれるキクさんに申し訳なく思って始めてみた家事だったが、一端自分でやるとなれば案外楽しいものだとわかった。
 相変わらず政継の口は悪かったが、新しくレパートリーに加わった品を出せば何らかの反応を返してくれたし、やりがいはあった。(「このにんじん煮えてないぞ」「肉がちゃんと切れてなくて食いにくい」とか、まあダメ出しばかりではあったけど)
 私は部活に入っていなかったし、受験も来年のことだからちょうどよかったかもしれない。
 炊飯器が軽やかな電子音を奏でて、ご飯が炊きあがったことを告げた。
 煮汁が少なくなれば、肉じゃがも完成だ。
 軽く明日の英語の予習をして、政継の帰りを待つことにした。


「……――もと。…おい、もと。起きろ」
 ああもう、うるさいなあ。そんなに何度も呼ばなくても起きるってば。
「…どこがだ、馬鹿。さっさと起きて飯にするぞ」
 誰が馬鹿だって?と思ったところで、ぱちりと目が覚めた。
「あ……政継」
「あ、じゃねえよ」
 呆れたような顔で政継が私を見下ろしている。どうやら政継を待っているうちに、机に突っ伏して寝てしまったらしい。政継は既に制服から着替えていた。
「思いっきり寝ぼけてんな」
「……もう目は覚めました」
 よいしょ、と声を掛けて立ち上がる私を、政継が半眼で眺めている。無言の非難を完全に無視して、今日は肉じゃがだよ、と似つかわしくない重々しさで告げた。本当は単に眠たかっただけなんだけど。
 背中で政継の小さな笑い声を聞いた。


 夕飯を終えて、ゆっくりとお茶を飲む。政継は頬杖をついて、テレビを眺めている。こうしているところだけ見ると、なんだか結婚して何年も経つ夫婦のようでおかしい。
 ばたばた、と騒々しい足音が近づいてくる。母屋の方からだ。
 今までそんなことはなかったのに、と思って政継の様子をうかがう。足音を聞きつけたらしい政継も、テレビから目を離す。
 母屋の方で何かあったんじゃないの、と口を開こうとした瞬間、音を立てて障子があいた。
「政継さん、素子さん、失礼します」
 キクさんの顔はいくらか青ざめていた。
「旦那様が倒れられて病院に運ばれたと秘書の方から連絡がありました」
 ああ。
 私はぎゅっと目をつぶる。

 その直前に、政継の眉間に深いしわが刻まれるのを見たような気がした。


* * *


「過労だろ」
 タクシーの車内で政継が呟いた。小笠原のおじさんがなぜ倒れたのか、キクさんは告げなかった。けれども、政継はまるで何もかも分かっているような口ぶりだった。
「……」
「前にも何度かあったんだよ。もう年のくせに、あの親父は加減ってもんが分かってないんだ」
 ちらりとタクシーの運転手がミラーを見上げて、私たちの様子をうかがってきた。私と政継の間に流れるどんより重い空気を察してか、声をかけようとはしてこない。

 違うんだよ、政継。
 違う。

 でも、私には何も言えない。
 今さら、なんにも。


 診察時間を終えた病棟はひっそりと暗く、静まり返っていた。一定の間隔で光る非常口の緑色の灯りと、明るさを落とされた照明がリノリウムの床を照らしている。
 足早に指定された病室に向かっていると、視線を足元に落としてじっと立っている江梨子さんの姿が見えた。
「……急にごめんね、政継くん。素子さん」
「いえ、…あの、政彦さんは?」
「とりあえず急ぎの仕事を片づけてから来るって」
 いつもは品よく穏やかに笑っているはずの江梨子さんの表情は暗い。出がけにキクさんから「本当にすいませんが……」と渡された紙袋には下着や着替えといった当面必要なものが揃えられていた。伝えられた通り、江梨子さんに手渡す。
「あら…、ありがとう。だめね、私。病院に来る時、慌てて何にも用意しないで出てきちゃったの」
 困ったように笑って見せる江梨子さんは、言葉通り小ぶりのハンドバッグ以外何も持っていない。
「もうしばらくしたら、お医者様から説明があるそうだから」
 江梨子さんの言葉に、私の隣に立っていた政継が病室へ入る。私と江梨子さんもそれに続いた。
 ベッドの上で、小笠原のおじさんは何にもなかったかのように眠っていた。