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夫婦ごっこ

夫婦ごっこ

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 あれから、会場に戻る途中、ピンクのドレスの女性にぶつかった。
「きゃっ」
 相手はそのままよろめき、倒れこみそうになる。
「香織!」
 私が人にぶつかっていたのにいつ気づいていたのか、政継がさっと女性を抱きとめた。名前を呼んでいるから、どうやら知り合いのようだ。
「すみません、大丈夫ですか…」
「もと、お前どこ見て歩いてるんだよ」
「ごめん…」
 呆れた口調で言う政継の言葉は、実際その通りなので、私は何も反論できずに項垂れた。
「政継、自分の奥さんの手綱くらいちゃんとひいておきなさい」
 ふと、女性の腰に回された政継の手が目に入った。途端にむかむかするようなもやもやするような気持ち悪さが胸の内に巣食う。
「はじめまして、素子さん。このたびはおめでとうございます」
 すっと顔を上げて立っている彼女の姿はまるでモデルのようで、小柄な私を上から見下ろしている。それでは芝生なんか歩けないだろう、という細いピンヒールが絶妙なバランスで彼女の体を支えていた。
「日比谷香織です。両親が『アルレッキーノ』という服屋をやっていましてね。その関係で政継とは知り合いなんです」
「…そんなもん持ち出してこなくても、高校のクラス一緒だろうがよ…」
「うるさいわよ、政継」

 服屋などと彼女は簡単に言ったが、『アルレッキーノ』と言えば、最近海外進出も果たした新進の高級ブランドではないか。
 ということは、この人は『アルレッキーノ』の社長令嬢ということ?
 あっけにとられて何が何だか分からなくなっている私を見かねて、
「気にすんな。あいつ強引だから」
「はあ……」
「俺、さっき親父に顔出せって言われたから少しだけ行ってくるけど。お前は…」
「早く行って来なさいよ。素子さんならあたしが見といてあげるわよ」
「お前はいちいち鬱陶しいな…」
 そう言いつつも、香織さんがいることで安心したのか、軽く私の背中を叩くと、彼は足早に去っていった。
 二人の間に降り立つ沈黙。
「え、と。香織さん…すみませんでした。先ほどは」
「いえ、政継のおかげでなんともなかったので、お構いなく」
 政継がいなくなった途端、ぴしゃりと私をはねのけるような口調になっていて、私は思わず息をつめた。
「素子さん、お父様は今ドイツなんですって?」
「え?ああ、はい。なんでも学術研究に行ってくるとかで」
「そう」
「……」
 ボーイからシャンパンを受け取り、香織さんは当然のようにそれを口に運んだ。さすがの私もここで未成年の飲酒が云々と言えるほど根性は据わっていない。
 ただ、ぼおっと口元のグラスのふちを見るとはなしに眺めていた。

「私はてっきり、政継はもっと違うところのお嬢さんと結婚するのかと思っていましたけれど」
「え」
「お見合いなんですってね。まさか政継のお嫁さんがそんなふうにして来られるのだとは思わなくて」

 あからさまな敵意に、私はもう言葉も出ない。  頭のどこかで、あれはお見合いというのかな、と見当違いなことを考えていた。

「素子さんでは、政継など手に負えないと思いますよ」
 ゆっくりと持ち上がる彼女の口の端。そっと私の耳元に言葉が落とされる
「政継はあれで意外と、夜は優しいでしょう。素子さんなら尚更ね」
 素子さん、純粋そうだから。
「それとも優しすぎてまだ手も出していないとか」
 まさかそんなことはないでしょうけどね。
 香織さんが艶やかに笑った。

 羞恥と得体のしれない怒りで目の前がくらくらした。


* * *


 分かっていた。
 小笠原のおじさんが私に求めていたのは政継の「妻」というポジションに私を据えることであって、恋人ごっこをするためではないということを。
 私もそれを了解していて、政継本人にまで『嫁に来たのは小笠原のおじさんのためだけだ』と言い放ったはずなのに。
 それなのに、自分の中をじくじくと覆っていく、この汚い感情は何なのだろう。
 それは江梨子さんが選んでくれた純白のドレスとはあまりにも似つかわしくない。
 その私の知らない何かは一日中、胸の片隅でくすぶり続けていた。


* * *


「高校は卒業まで通称名として前の名字でやってくれだとさ」
「…そう」
 式から数日たっても、私の身辺は特に変わらない。
 政継の方は、学校にも取引先の子供やら何やらが多くてうるさかったらしいが、私の方は驚くぐらい何もなかった。
 ただ、結婚しました、と担任に伝えたら、校長室に呼ばれて事情を聞かれ、電話で呼び出された小笠原のおじさんと政継とがやって来て、部屋を出る頃には『じゃあ、卒業まではそういうことで』の一言で何もかもが片付いた。だから未だに高校には『渋沢素子』として通っている。

「もと」
「…なに、政継」
 私服に着替えて、私の隣でテレビを見ていた政継がふいに声をかけた。
 この離れにテレビを持ち込んできたのは政継だ。『陸の孤島じゃねえんだぞ』とか言って、呆れるお祖母さんをよそに、どこぞからか運んできた。
 投げ出された足の大きさに、奇妙に関心する。
「どうかしたか」
「え?」
「お前、この間からなんかおかしいだろ」
 家の連中に何か言われたか。
 
 ついこの間まで、寝首をかかれるのではないかというほど私を警戒していた政継が、今は私を心配しているのがおかしい。趣味の悪い冗談みたいだ。

「別に何も」

 そう。別に何も。
 式を挙げて婚姻届を出したからと言って、何か変わったかと問われれば何も変わってやしないのだ。

「もと」
 問い詰めるような気配をその短い呼びかけに感じて、私は殊更鈍感な振りをした。
「何もないよ」

 何もないことにおかしなくらい不安を抱いているということは伏せて。



『良い時も悪い時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も死が二人を分かつまで……』
 

 『死が二人を分かつまで』?
 ちゃんちゃらおかしかった。
 私は政継がどんな人間で、どんなふうに生きてきてきたのか、ほとんど何も知りやしないのだ。
 このままごとみたいな奇妙な共同生活がどれぐらい続いていくのかも。

 そっとうつむいた視界の端で政継が注意深く私を見つめているのに、またも気づかないふりをした。