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夫婦ごっこ

夫婦ごっこ

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 近頃、もとは様子がおかしい。

 いつからなのか考えてみると、ちょうど式を挙げた日ぐらいからになる。
 怪訝に思った俺は当然もとに『何かあったのか』と聞いてはみたのだ。しかし、彼女は何の感情もその顔にはあらわさずに、幾度聞いてもひたすら『特に何も』と言うばかりだった。

 軽く首を振って、机上のノートに目をやった。現社の教師の板書は汚いが、彼の出来の良い頭から生み出される話は、分厚い教科書よりもよっぽど役に立つ。
 ただ機械的に手を動かして何もかもをノートに写すよりも、今すぐ頭を切り替えて教師の話をきちんと聞いた方がよっぽど建設的なのはとっくに分かっているのだが、そうできないのだからしょうがない。
 俺はくるりとシャーペンを回して、彼の話を聞くことを諦めた。

 そう簡単に親父の言う通りになってやるものか、と思う一方、自分がもとを受け入れだしているのはどうしようもない事実だった。
 彼女が、金や家柄で嫁いできたのではないにしろ、何らかの事情があってのことだとはもちろん分かっている。彼女曰く『小笠原のおじさんのため』らしいから、親父と何か関係があるのだろう。
 いつも遊んでいる女連中とはまた違った意味で、深入りすべきでない相手だ、と心のどこかで分かっていた。
 実際、もう彼女と結婚する以外どうしようもない、と分かったとき、『彼女には名目だけの妻として小笠原にいてもらえばいい。俺の相手は愛人なり何なりの形でつくってやる』とまで考えていたはずなのだ。だというのに、どうしてだろう、彼女以外の女が隣にいることにもう違和感を覚え始めている。

 かたん、と頬杖をついた。机の上も見ずについたせいか、ノートを肘がかすってくしゃりと歪んだが、素知らぬふりで物思いに沈む。
 彼女と初めて会ってから、もうじき1か月経とうとしている。式を挙げるまでが1週間。式からはもう2週間以上たっている。
(まだ、そんなものか…)
 もう数か月ほど一緒にいたような気がする。
 今まで付き合っていた恋人たちと比べたら、まるで、ままごとのような日々だったが、俺はそれが嫌いじゃなかった。
 ひとつ年下とはいえ、もとはずいぶんと利口だったし、帰宅してから交わすろくでもない言い合いが、何故だか自分の肌になじんだ。相変わらず和室に敷かれた二つの布団の隙間はずいぶんとあいていたし、夕食で顔を合わせてもほとんどつまらないことで言い争いをしていたというのに。
(離れに二人でいるせいだろうな)
 だとしたら、親父と祖母の目論見は成功したことになる。
 親父と祖母は、本邸の離れに俺たち二人だけで住まわせることで、二人の仲を進めさせようとしたのだろう。
 
 授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。高名な作曲家に依頼したとかいう校歌のワンフレーズ。オルガンのような電子音が、スピーカーから流れて、ばつりと切れた。
 チャイムで無理矢理に中断された思考は、もうまとまりかけた形を失って元通りになってしまった。
 結局、たどりついた答えは最初と同じ。

(あいつ、絶対なんかあったんだろうけどな……)

 途端に忙しくなった教室の空気に流されて、もうそれ以上はなんとも言いようがなかった。


* * *


「政継!お前、今夜はどうする?」
「今夜…?」
「おいおい、言っておいただろ。大山女子の子たちと飲み会だって」
 俺の肩をたたいてきたこの悪友には、昔からずいぶんと世話になった。いったいどこから、と思うほどこいつはそういう話をまとめてくるのがうまかった。
 今夜の大山女子大も、かわいい子が多いことで近隣には有名だ。
 しかし。
「俺、最近夜は家にいることにしてるから」
「はあー?なんだよ、それー」
「悪ぃな」
「お前この頃付き合い悪くねえ?」
 首に腕を回し、ヤンキーのように絡んできた悪友・近藤に苦笑をもらす。
「だめよ、近藤君。政継、かわいい若奥様が待ってるおうちに今すぐ帰りたいんだから。誘うだけ無駄ってものよ」
 皮肉な口調で言ったのは、香織だった。
「香織」
「何よ。嘘じゃないでしょう」
 彼女の言葉に嘘はないのだが、もと と『かわいい若奥様』という言葉の印象はあまりに違いすぎる。
「お前、もう式挙げたんだってな。信じらんねえ」
「それは俺のセリフだって」
「おじさまも政継の行状をみかねたんでしょう」
 当たらずとも遠からじ。と言ったところか。

 ダークブラウンのカラーリングでツヤを放つ香織の髪は、見るからに金がかかっている。この女は自分のためになる金なら決して惜しまないのだ。

 香織とはずいぶん昔からの付き合いになる。
 何度か寝たこともあるほどの仲だが、俺たちの関係は恋人同士というより、そういった行為もろもろを含んだ友人と言った方が適切だと思う。もとに聞かせようものなら、髪を逆立てて怒りそうなことだが。

「まあ、ここの連中も早いか遅いかだけで結局はお前と一緒なんだろうけどな」
 いまどき古いと言われるかもしれないが、大企業の御曹司が溢れているこの高校の出身者なら十分あり得ることだった。
 遊びの相手とはほどほどに。いつかは親の決めたビジネス込みの相手と、結婚という名の共同生活。
 俺たちが馬鹿みたいに遊び呆けるのはもしかしたらこのタイムリミットのせいかもしれない。
「じゃあ、俺は行くから。政継、今度埋め合わせしろよ!」
「じゃあな」
 ばたばたと慌ただしく去っていく近藤を見送った。横からじとりと粘着質な視線を受け取って、俺は半眼になる。
「……なんだよ、香織」
「…別に」
「ならそんな風に見るのやめろよ、うっとうしいな」
「私、政継の奥さん嫌い」
 彼女はただでさえつり気味の目なのに、今日は一段とキツく見える。

 俺は香織の言葉に思わず苦笑して、
「別に俺の嫁を香織が好きになる必要ないだろ」
「うさんくさいのよ。見るからに繊細で従順です、みたいな顔して」
 
 これには噴き出した。
 あの一本筋の通った頑固オヤジみたいなもとが、深窓のお嬢様に見えたのだとしたら、それは純白のウエディングドレスマジックに違いない。かくいう、俺も彼女のドレス姿にはくらりとしたのだ。

「…政継。何なのそれ、感じ悪い」
「いや、悪い。……あいつ全然そんなんじゃないから、思わず。俺にお茶ぶっかけてくるくらいの奴だし。お前、何言ってんの」
 香織はきれいにマスカラでコーティングされた睫毛を瞬かせた。
「何それ」
 そういえばあの日、もとを一人にしたとき、彼女と一緒にいたのは香織だった。あれからすぐにもとのところへ戻ってからはずっと離れていないから、もとに何か吹き込んだ奴がいたとしたら、香織かもしれない。

「香織」
 不満そうな顔をしている香織を正面から見据えた。
「お前があいつのことを気に入ろうが気に入るまいが、俺は知らねえけど」

 あいつにちょっかい出すなよ。絶対。

 分かったな、と念押しする必要はなかった。
 目を見開いた香織は、やがてごくりと唾を飲み込んだ。