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夫婦ごっこ

夫婦ごっこ

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 ぴんと伸びた背筋。
 相変わらず化粧っ気のない顔に、強い意志の光をたたえた瞳。
 毎日見飽きるほど見ているそれらに、俺はだんだん愛着を感じだしている。

「…あ、政継。帰ってたんだ」
「そりゃあ、俺んちだしな。悪いかよ」
「……別にそういうことを言ってるんじゃないって…」
 もとがあからさまなため息をつく。

 こんなつっけんどんなやりとりにも慣れた。
 呆れた顔のまま、着替えるために部屋を移動したもとをなんとなく見送って、頬杖をついた。
 もとが着替えて戻ってきたのとほとんど同じくらいのタイミングで、お茶受けと急須、二人分の湯飲みを盆にのせたキクさんがやって来た。
「キクさん、ありがとう」
「いいえ。…あ、そうでした。今日は旦那様が夕飯を一緒にどうかとおっしゃっていましたよ」
「そうですか。じゃあ、夕飯の時間になったら政継と行きます」
 キクさんが去るのを待って、俺はいきなり口を開いた。

「もと。お前、香織に何か言われたろ」
「……なに?いきなり」
 しばらく間をおいて、もとが俺から目をそらした。
「とぼけんな」
「……」
「おい、もと」
「……別に、政継が誰と付き合ってるとか、私には関係ないから。止めるつもりもないし」
 普段より幾分低い声で漏らされたもとの言葉に、俺は思わず声を上げた。
「……はあ?」
「『はあ?』って…」

 香織に何を吹き込まれたのか知らないが、何やらあらぬ誤解をしているらしい。
 もとと見合いをしてからというもの、女を抱くどころか学校からまっすぐ家に帰ってきているこの俺を、どこぞの種馬のように考えやがって。
 ここ最近のもとの態度が彼女の誤解によるものだと分かった途端、なんだか無性に苛立ってきた。

「馬鹿か、お前」
「なっ……」
「あいつに何を吹き込まれたのか知らねえけど。大体、気にするくらいならどうして俺に直接聞かない?」
「……」
 もとの顔がわずかに歪んだ。その顔がどこか頼りなさげに見えた。

 そうだ。
 俺と彼女は結婚したのだ。夫婦なのだ。
 元はと言えば親父が勝手に段取りしたことだし、形式だけじゃないかと言われればそれまでなのだが、今じゃ一緒に住みだしてだいぶ経っているし、もとのことだって少しは分かってきた、と思っていたのに。

「一応言ってやるけどな、香織とは恋人でも何でもねえよ」
 まあ、そのくせやることはやったけれど。
 そこは敢えて伏せて(自分から面倒を起こす必要はないだろう)言う。
 もとはじっと俺を見つめていたが、やがてふっと視線を逸らした。
「…そう」
 私には関係ないけど、とでも言いたげな顔だ。
 わざとらしすぎるんだよ、馬鹿たれ。
「お前はどうなんだよ」
「……は?」
 怪訝な顔で俺を見るもとに、そう言えばこいつはひとつ年下なのだったな、と思い出す。
 ぱち、ぱち、と瞬きする睫毛は、何もしてないだろうに長くて、香織あたりがみたらまたうるさく言いそうなほどだ。

「お前は他の奴と付き合うのか」
「…なに、それ」
「親父から言われたのはうちに嫁いで来いっていうだけなんだろう」
「……。…そうだけど」
「なら別にお前が外で愛人を作ろうが何しようが、構わないわけだ。違うか?」
「……はあ?政継、何バカなことを…」
 軽く開いたもとの唇の中、ちらりと覗いた舌の赤さにはっとして、俺は馬鹿みたいに戸惑った。童貞でもあるまいに、こんなどうでもいいことで。

 こんなことを彼女に聞いたのは単に疑問を口にしただけが、実際に言葉にした途端、他の男と歩くもとの姿が鮮やかに脳裏に浮かんで、消えた。
 その瞬間、言い表せないような嫌悪感に襲われて、俺はがつんと頭を殴られたようだった。


 そうだ。
 俺はもとの何も知らない。
 今まで恋人がいたのかどうかさえ知らない。
 彼女と俺との関係は、今のところ、『婚姻届』という一枚の紙っきれがあるにすぎないと頭では分かっていたはずなのに、こうして彼女が誰か別の奴のものになると考えただけで無性に苛立つのは何故だ?

 もとが自分で好きになった相手には、こんなふうな口はきかないのか?
 キスをして抱きしめられて、抱かれるのか?
 もとが?
 未だに眠る時は寄せて敷かれた布団をわざわざずるずると引き離して、しかめっ面で『おやすみ』を言うもとが?

「俺は壊してやるからな」
 呆けたようにかすかに口を開けたまま、俺を凝視していたもとの肩がぴくりと揺らいだ。

「俺がどんな女と寝てようがお前はじっと黙ってるんだろうが、」
 座卓を挟んで向かい側に座るもとへ身体を近づけようと身を乗り出した。
 腕をついていた座卓がきし、と音をたてる。
「俺は、お前が他の男と寝るのは、許さない」
 一語一語をはっきりと区切り、言い聞かせるように口にした。
「なんで…政継が、そんな…」
 辛うじて言葉を返したもとへ、唇を歪めて見せる。
 なんの権利があって俺にそんなことができるのかって?

「だって、もとは俺の嫁なんだろ?」